「お墓には行けない」私を、責めないで
「この間の命日、何もできなかったな」
「仏壇もないし、どうやって供養したらいいかわからない」
そんなふうに、自分を責めてしまったことはありませんか?
だけど、スマホの写真をそっと開いて、手を合わせたあの瞬間——それも、ちゃんと“祈り”だと私は思うんです。暮らしの中で無理をせず、でも心を込めて。現代の私たちができる“新しい供養の形”について、お話ししていきます。
スマホの写真に手を合わせるってアリ?
形式よりも大切なのは“心を向けること”
供養といえば「お墓に行く」「仏壇に手を合わせる」そんなイメージがあるかもしれません。
でも、大切なのは“どこで”よりも“どんな気持ちで”向き合うか。
スマホの中の写真を見ながら、ふと思い出す。その人の好きだった料理を思い浮かべる。たったそれだけでも、心はちゃんとつながっているんです。
住環境や忙しさで変わる「供養のかたち」
最近は仏壇のない家庭や、遠方にお墓がある人も増えました。特に40代〜50代になると、親の介護や仕事に追われ、思うように時間が取れないことも。
そんなとき、自宅のリビングや寝室で、スマホの中の写真にそっと手を合わせる。それでも十分、心のこもった供養です。
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「スマホ供養」ってどんなふうにするの?
写真を表示して静かに手を合わせる
朝起きたときや、寝る前のひとときに。スマホを開いて、故人の写真を見ながら静かに手を合わせる——それだけで、心がすっと落ち着くのを感じる人も多いです。
好きだった音楽を流したり、お茶をそばに置いたり。その時間を「特別な時間」にするちょっとした工夫もおすすめです。
メモアプリに想いを書く“言葉の供養”
「伝えられなかったありがとう」
「今でも会いたい気持ち」
そうした気持ちを、スマホのメモアプリに書いてみてください。言葉にすることで、心が少しだけ軽くなります。まるで日記のように続けていけば、自分自身の心も整理されていきますよ。
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「ちゃんとしてない」と感じたときの心の整理
後ろめたさより“思い出してあげること”が供養になる
「ちゃんとお墓に行けていない…」
「こんな簡単なことでいいのかな…」
そう思ってしまう人もいるかもしれません。でも、どんな形であっても「思い出すこと」自体が供養なんです。心の中にその人がいる限り、つながりは絶対に消えません。
自分なりの“祈りの形”を見つけていい
供養は、決まったルールや正解があるものではありません。誰かのやり方を真似しなくても、自分のやり方で大丈夫。
花を飾る人
手紙を書く人
ただ静かに思い出す人——
どれも立派な“祈り”です。
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私の友人が教えてくれた「スマホ供養」というやさしい時間
「手を合わせたい人がいるけど、お墓も仏壇も遠い」そんなふうに話してくれた友人がいます。仮にYさんとしておきましょう。
Yさんは、高校生の頃にお父さまを亡くされていて、大人になってからも、その悲しみがふとした瞬間に蘇ることがあるそうです。
ある日、「父の命日、仕事でお墓に行けなかったんだ」と言いながら、Yさんはこう続けました。
「だからね、その日の夜、スマホの中にある父の写真を開いて、“ありがとう”ってつぶやいたの。そしたら、不思議と心がすーっと落ち着いたの。」
私はその言葉を聞いたとき、「そんな供養の形があるんだ」と、正直ハッとしました。
Yさんにとっては、それが“とても自然な行為”だったそうです。誰に見せるでもなく、声に出すでもなく。ただ、自分の中の祈りとして。
あるときは、お父さんの好きだったお酒を一緒に並べて、スマホの画面の前で「乾杯」をしたこともあるんだとか。
「変かな?って思ったこともあったけど、私の中では“これがいちばん心が落ち着く”んだよね」
その話を聞いて以来、私は「供養ってこうあるべき」という考えを手放しました。仏壇がなくても、決まった形式がなくても、心のこもった時間さえあれば、それは十分すぎるほどの供養なんだ——そう思えたんです。
もしあなたも、大切な人を思い出す瞬間があるのなら、どんな方法でもいい。スマホの写真を見てそっとつぶやくだけでもいい。
きっと、その想いは、ちゃんと届いていると思います。
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スマホで供養している人って、他にもいるの?
スマホに向かって手を合わせる——
最初は「友人だけかも」と思っていたけれど、調べてみると同じような祈りの形を持つ人は、想像以上にたくさんいました。
ここでは、SNS上に見られる“供養のスタイル”をご紹介します。
※実際の投稿を参考にしたフィクションです。
🌿X(旧Twitter)で見かけたやさしい供養の形
@aoiro_sky
「父のお墓が遠くて、なかなか行けません。だから毎朝、スマホの写真に“いってきます”って声をかけるのが私の日課です。」
@nekomaru_mofu
「母の命日。写真にお花のスタンプをつけて、画面越しに手を合わせました。ちゃんと届いた気がする。」
@hoshizora_days
「仏壇もお墓もないけど、おばあちゃんの写真だけは毎年誕生日にケーキと一緒に飾ってます。子どもにも“今日はひいばあちゃんの誕生日だよ”って話してます。」
読んでいるだけで、心がじんわりと温まるような言葉たち。供養って、本当に人それぞれなんだと感じさせてくれます。
💬知恵袋や掲示板にもこんな声が…
「仏壇もなければ、仏教の知識もありません。でも、母の笑顔がスマホに残っているだけで、救われています。」
「毎年、母の誕生日には、LINEで“おめでとう”ってメッセージを送ります。届かないのは分かってる。でも気持ちは伝わると信じてます。」
「写真フォルダの中に、供養用の“アルバム”を作ってます。“ありがとう”って名前をつけて、そこに手を合わせてます。」
🧘「誰かのやり方」じゃなくて「自分らしさ」でいい
こうした声を見ていると、「これが正しい供養の形だ」というルールは、実はないのかもしれないと思えてきます。誰かの背中をまねるのではなく、その人との思い出を、自分らしい方法で大切にすること。
それがきっと、いちばん心に届く祈りなんじゃないかなと思うのです。
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よくある不安Q&A|それでも“スマホ供養”でいいの?
Q1. スマホに手を合わせるだけで、ちゃんと供養になるの?
A. 十分、立派な供養です。
供養とは、本来「故人に心を向けること」。
場所や形式よりも大切なのは、あなたの“気持ち”なんです。
たとえスマホの小さな画面でも、その人を思い出し、言葉をかけ、手を合わせる——それだけで、心はしっかりつながっています。
Q2. ちゃんとお墓に行けていない私、ダメなんじゃない?
A. 自分を責めないで。できる範囲で、気持ちを込めれば十分です。
今は忙しさや距離の問題で、お墓参りや仏壇に向かうことが難しい人も多くいます。そんな現代だからこそ、「暮らしの中でできる供養」が大切にされる時代になっています。
むしろ、“思い出す時間を持っている”ことこそが、供養そのもの。できていないことより、“あなたが今日も思い出していること”を、大切にしてください。
Q3. 誰かに見られたら恥ずかしいかも…
A. 気持ちに寄り添う行動に、恥ずかしいなんてことはありません。
もし誰かがあなたの姿を見ていたとしても、きっと「あ、きっと大切な人を思っているんだな」と感じるだけです。
人に見せるための行動じゃないからこそ、そこにこめられた気持ちは、まっすぐで美しいのです。
Q4. 供養の仕方に“正解”ってあるんですか?
A. ありません。
あなたの心の声に正直でいることが、一番の“正解”です。
宗教や風習は地域や家庭によっても違います。でも、「あの人のことを想っている」それだけで、形は何でもいい。スマホでも、心の中でも、あなたの方法で大丈夫。それが、あなただけの“供養のかたち”なんです。
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供養のかたちも、時代とともに変わってきた
昔は“仏壇とお墓”が供養の中心だった
ひと昔前は、家に立派な仏壇があり、家族みんなでお彼岸やお盆にお墓参りをするのが当たり前の風景でした。
特に、三世代が一緒に暮らしていた時代では、子どもたちも祖父母の背中を見ながら「手を合わせる習慣」が自然と身についていたのだと思います。
けれど、時代が進むにつれて、ライフスタイルも、家族の形も大きく変わってきました。
今は“暮らしの中でできる供養”が求められている
現代は、都市部で暮らす核家族が増え、仏壇のない家庭や、お墓が遠方にある人も多くなりました。仕事や家事、介護や育児に追われる毎日。「行きたくても行けない」という声が、どんどん増えているのです。
そんな背景の中で生まれてきたのが、“自分なりの供養”という考え方。
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写真に手を合わせる
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好きだった料理を作る
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心の中で語りかける
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SNSに思いを綴る
どれも立派な「祈りの時間」です。
スマホは、今いちばん身近な“祈りの場”
昔は仏壇の前でしか手を合わせなかったかもしれません。でも今は、スマホという小さな画面の中に、思い出がぎゅっと詰まっています。
✔笑顔の写真
✔一緒に撮った旅行の動画
✔残っていたLINEの履歴
それらが、仏壇のような役割を果たしているのかもしれないと私は思うのです。大切なのは、“どこで”ではなく“どんな気持ちで”。
そして、供養もまた——
あなたの暮らしに自然となじむ、今の時代らしいスタイルでいいんです。
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私のスマホには大好きな父の写真がない!
私は最近まで、「スマホ供養」という言葉すら知りませんでした。でも、今回この記事を書くなかで、“スマホで手を合わせることも、ちゃんとした供養になる”と気づいたんです。
実は私、父を亡くしています。
「父の写真にも手を合わせたい」と思ったとき、ふとスマホを開いてみたんですが、そこには父の写真が一枚もありませんでした。
あ、そうか。
当時はガラケーだったし、写真は全部、昔のアルバムの中。それを思い出しただけで、ちょっと胸がぎゅっとしました。
でも、それでもいいんですよね。思い出そうとしたこと。“写真がない”と感じたその気持ちこそが、もうすでに供養なんだと、今ならわかります。
写真があってもなくても、スマホでも、記憶の中でも。祈りはいつだって、どこにいても、どんな形でもできる。
「手を合わせたい」という気持ちがあるだけで、その人と、ちゃんとつながっているんだと思います。どうかあなたも、自分のやり方で、自分のペースで。やさしい気持ちを届けてあげてくださいね。
「ない」を嘆くより、「ある記憶」を大切にしたい
今は簡単に写真が撮れる時代だけれど、私の父と一緒に暮らしていた頃は、まだフィルムのカメラやガラケーが主流でした。
だからこそ、残っている写真は少ない。
でも思い返してみると——
焼き魚をきれいに食べる姿や、運転中の鼻歌、
たまにくれる静かな励ましの言葉、
そういった“記憶のかけら”は、ちゃんと残っています。
供養とは、そうした“目に見えないもの”を大切にする時間でもある。そう思えたら、「写真がない自分」を責めなくてよくなった気がします。
父との思い出を、これからも少しずつ思い出していく
供養って、何か特別な日だけにするものだと思っていました。でも今は、「何でもない日」にふと思い出す時間こそ、本当の供養かもしれないと思うようになりました。
季節の風の匂いとか、父の好きだった音楽を耳にしたときとか。
そういう、ふとした瞬間に
「今、ちょっとつながれたかも」と思える時間が、じつは一番あたたかいんじゃないかなと思うのです。
これからも、思い出すたびに、そのときの自分なりのやり方で祈っていけたらいいな、と思っています。
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まとめ
あなたの「祈りの形」は、あなたにしかできないもの
供養というと、仏壇やお墓の前で手を合わせる——そんな決まったイメージを持っている人も多いかもしれません。
でも、スマホに残る写真に手を合わせたり、
ふとした瞬間に思い出をたどったり。
そうした“ささやかな時間”のなかにこそ、大切な祈りの形は息づいているのだと思います。
私自身、スマホに父の写真がなかったことで戸惑ったけれど、そのとき感じた「思い出そうとする気持ち」こそ、もうすでに心の供養が始まっていたことに気づきました。
誰かのやり方じゃなくていい。
決まった形じゃなくていい。
あなたの暮らしの中で、あなたなりのやり方で、大切な人に想いを届けてあげてください。
きっとその祈りは、ちゃんと届いていますよ。
今日は特別な日だからお墓参りに行きたいけれど、でも時間が作れなくてやっぱり行けない。そんな時にできる7つの方法もご紹介しています。コチラです。↓
